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建設業界 2001年9月号

■研究余滴●野帳余白

土木と私―大震災ガレキの後始末

多淵秀樹(たぶち ひでき) 新井組関西本店・土木統轄部長
 
土木への志

私は昭和22年に生を受けて以来、高校を卒業するまでの幼・少年期を兵庫県宍粟郡の片田舎で過ごした。当時、この地域では地震が時折発生すると、地鳴りとともにまず山のキジが驚きの声をあげ、次に鹿の叫びが続いた。この順序は地震のたびに決まって繰り返され、私も恐怖で母親のそばによく駆け寄ったものである。地震の恐ろしさは何の前ぶれもなしに突然やってくることで、その時の恐怖は今も鮮明に記憶している(後に解った事であるが、私の住んでいたところは今なお活動が叫ばれている山崎断層の真上にある)。

また、当時は昨今以上に台風もよく来ていた。毎年そのシーズンには複数の台風が来襲し、日常的に川は氾濫し多くの被害をもたらした。台風のたびに川は増水し、時に唯一の生活道である木橋を押し流してしまい、我が集落は一瞬にして孤島と化すのだった。

台風が去り川の氾濫が収まるのを待って仮の橋が渡されると、通学を始めとする歩行者だけの、いわば生活の一部がようやく元に戻るのである。その後、かなりの時間をかけて、流失した木橋は本格的に復旧され、やっと元通りの生活が取り戻せた。私の記憶に残っているだけでもこの復旧作業を三度くらい繰り返したすえにやっと、コンクリート製の「永久橋」が完成し、60戸余りの集落の全員で祝ったことを鮮明に覚えている。

これが、治山・治水に関わる土木に憧れた幼少期の思い出であり、またその後土木という分野に志した人生の端緒であったと言っても過言でないような気がしている。
 
土木技術者として

大阪万博が開催された年に私は念願の土木技術者としての一歩を踏み出すこととなった。高度成長期の最中、道路の改良工事や山陽新幹線の建設工事も最盛期を迎えていた頃であり、3か月ほども休みが取れないこともままあった。またそれが何ら苦痛でもなかった時代でもあった。誰しもが経験したことと思うが、その後数年間はただ、がむしゃらに仕事に立ち向かっただけであったが、この貴重な経験を通して土木工事の種々の技術の基本を学べたと確信している。

その後、河川改修、橋梁、宅地造成、下水トンネル等々いろいろな土木工事の現場を担当し、土木技術のめまぐるしい発展、進歩もまた身をもって経験しながら今日にいたり、氾濫しない川をつくり、災害に強い物を構築し、人々の生活の基盤に寄与することが私に与えられた天職である、と意を強く感じ始めたその矢先、6千数百人の犠牲者を出したあの忌まわしい大地震が発生した。
 
大震災のこと

ゴオーという大地鳴りに続く、突き上げるような縦から横へのすさまじい揺れ! その瞬間、なにが起こったのかまったく理解できなかった。数分間が経過した後、タンスが倒れ、原形をとどめない食器棚や食器類、そして冷蔵庫等が足の踏み場もないほど部屋いっぱいに散乱しているのを目の当たりにした。家族全員の無事を確かめたときやっと正気に戻り、これはとんでもない地震であることに気がついた。「なんでこんな所に地震がくるんや!」と思わず口に出たものである。

まだ暗闇の残る早朝、自宅を飛び出し会社に向かった。車のフロントガラスを通して飛び込んでくる光景は、つい昨日までのそれとはうって変わった、到底信じられないものであった。道路に被いかかる電柱、砕け散ったガラスの破片、1階部分が座屈してしまった高層マンション、屋根瓦が吹っ飛んだ民家等々、それらすべてがかつて経験したことのないすさまじいものであった。この早朝から、2年余りにわたる長く過酷な復興への日々が始まったのである。

平成7年1月17日未明、兵庫県南部を襲った大地震は未曾有の被害を阪神・淡路地域にもたらした。地震の被害は空前絶後であり、その情景は正視に耐えられないものであった。阿鼻叫喚とはまさにあの時のことを言うのであろう。

地獄絵図のような風景をしりめに車を走らせ、地震発生からあまり時間を経過してないこともあって、道路上に散乱する障害物をよけながらも20分ほどで社につくことができた。社内では既に緊急自家発電のディーゼルエンジンが黒煙を吹き上げて発電を開始していた。

エレベーターは当然ストップしていたので7階の席まで一気に駆け上がったが、そこで目にしたものは、とんでもないところまで移動してしまった机や椅子のかたまりであった。道中予測はしていたが、これほどひどいとは、としばし絶句した。「これは、とにかく、人がいる! 応援部隊がいる!」と気を取りなおして、幸いまだ使用可能だった電話で、数社の協力業者に応援出動を要請した。この後暫くして、電話は全く繋がらなくなってしまった。順次社員も集まりはじめ、救急車・パトカーのけたたましいサイレンが鳴り響く中、人命救助を皮切りに我々の活動は開始されたのであった。

被災地に本社を構えていることもあって、ありとあらゆる出動要請が次々に舞い込んできた。多くの方々の協力を得て、地震発生の3日後には私の所属する土木部門だけでも約300名程度の復興部隊を編成することが出来た。可能な限りの諸要請に応えられるよう全員が総力をあげ死に物狂いで取り組んだ。多岐にわたる復旧・復興作業の中でも、とりわけ地震の規模を象徴するデータの一つをここで紹介したい。
 
膨大なガレキの量

被災者への救援・支援を行うには、倒壊した家屋のために塞がれた道路をまず開放することが先決であった。そのためには膨大な量の震災廃棄物の仮置場を確保し、その処理を行うことが急務であった。

震災の翌18日に、西宮市は甲子園浜浄化センターの拡張用地を震災被害発生物の仮置場に選定し、全ての震災廃棄物の搬入が始まった。私たちはどれだけ発生するか想像すら出来ない膨大な量の廃棄物を、迅速かつ適切に分別処理・処分するといった待ったなしの未知の分野に取り組むこととなった。

日々、トラック2千余台にも及ぶ搬入量の震災廃棄物を適切なエリアに仮置きした後、リサイクルしたり最終処分可能なものにするための中間処理を行う作業である。重機類、破砕機、金属・木材・土砂選別機等を用いて構成素材別に選別や破砕を繰り返し、埋戻し可能部分や焼却可能部分に分類区分けする。そうして、前者は最終処分地へ搬出、後者は緊急設置された場内焼却炉にて焼却処分をおこなったが、処理方法等の詳細を述べることが今回の本意ではない。

ここでは、私たちが行った震災廃棄物処理の膨大な数量データに着目し、大まかにその数値を報告するにとどめたい。

西宮市における倒壊家屋数値概要
・倒壊家屋数  1万7千余棟
・延床面積   229万5千余平方トン
・受入れ期間  平成7年1月18日~平成8年12月21日(23か月)
・中間処理期間 平成7年1月18日~平成9年3月20日(26か月)

前述の数値を分かりやすく置き換えると、表-1のようになるが、当時の西宮市の家庭から排出されるゴミの年間総量が約18万トンであったことから、ほぼ11年分強の廃棄物が瞬時にして発生したことになり、これをもってしても、あの地震のすさまじさは推して知るべしである。

人間がつくり上げてきた文明の証としての街が、瞬時にして200万トンのガレキの山と化す、あの忌まわしい日から6年半余が過ぎた今もなお、これらの膨大な廃棄物の量に驚きを禁じ得ない。
 
表-1 震災廃棄物数量概要
項目 単位 数量 比較参考
仮置き場面積 平方米 272,000 東京ド-ム全敷地の6.8倍
総重量 トン 2,075,071 東京ド-ムの約1.7倍の水の重さ
総体積 立方米 3,742,552 東京ド-ムの約3倍
搬入車両台数 332,848 1台平均6米として2,300Km 鹿児島~青森の距離
最大搬入台数/日 2,709 1台平均5.5立方米として東京ド-ムに1.1mの盛土
*数量は 廃棄物学会誌 Vol.11 No.4 2000 【震災廃棄物の発生状況と中間処理】による
 

あとがき

幼・少年期を過ごした田舎での、あの木橋の流失、復旧から土木に憧れ、この世界に足を踏み入れて早30年余りが経過した。いつしか私たちはコンクリートの建物に住み、電気をふんだんに使いながら治水の行き届いた街で快適な生活を営んでいる。台風の脅威を実感するには少し恵まれすぎているのかもしれない。

しかし、この地球上には私たち人間を寄せ付けない大自然の力が厳として、今もそしてこれからも存在する。自然の猛威からの破壊を少しでも和らげ、そしてそれらと共存すべくまた新たに創造していく。これこそが私たち土木の世界に生きている者全員が持ち合わせている精神ではないだろうか。そしてこの精神を今後に伝えていくことこそが今を生きる私たちに与えられた責務であると思っている。

 このたびの震災復興を通して、我々土木技術者が本来持ち合わせていた役割を想起させられたような気がしてならない。二十四時間体制でガレキを受け入れたり、二次災害の危惧さえある急峻な山岳地での復旧作業は困難を極めるものであったが、不思議と疲れも恐怖感も覚えなかった。いやむしろ、かつて経験したことのない充実感にさえ支配されていたような気がしている。

あの極限状態での人と人との連帯感と「すみません」「ありがとう」「がんばって!」「お願いします」という自然な会話と笑顔が二年余という歳月で復旧を成し遂げた原動力であったと信じている。

 
地震発生時刻で止まったままの時計
地震発生時刻で止まったままの時計
追記
写真の時計は、当時私のデスクの上に置いていたもので、地震発生時刻を正確に指したまま止まっている。地震の記憶が時の経過とともに風化するのを防ぎ、土木屋本来の使命を忘れないためにも今後とも大切に保管したいと思っている。

地震による被害状況が明らかになるにつれ、私はこの復旧には十年以上は必要だと直感的に感じていた。ところが、こんなに早くほぼ復旧が達成できた。このことに対して、絶大なるご支援ご協力を頂いた全国の多くの皆さん方に感謝を申し上げつつ終わりとしたい。
 
(建設業界 2001年9月号より転載)
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